蒸し暑い夜。ヨル。よる。夜。
『かえりたい』
かぎあみでレースを縫いながら夫人は、
いつもと変わらないため息。
絵本を開いたなら、大好きな数え唄。
レースとお砂糖で『女の子』はできるって、
ガチョウのおばさんは歌ってた。
ガチョウのおばさんというのはマザーグースのこと。
マザーグースは、子供の遊び歌。
発祥は中世の英国。
色彩の重たい田園風景。
崩れかけた石の壁。
貧しい農民たち。
暗くたちこめた曇り空に胸がざわざわとする。
私は瞼を伏せて、マザーグースは呪いみたいだと思う。
触れてはいけないのに、私は触れずにはいられない。
夫人がレースで可愛い女の子をつくるなら、
私は、『女の子』に甘いお砂糖をあげる。
夫人は、もうすぐ七十を越えてしまう。
『かえる場所』なんて本当にあるんだろうか。
どうか私に答えて欲しい。
熱帯の夜は、終わらない。
あなたに『愛している』と伝えたい。
私は古びた窓の桟に腰掛けて、煙草の煙を深く吸った。
窓の桟に左足で膝をたて、右足を床に伸ばした。
足の指先は床をかすめ、ぺティギュアの塗られたつま先が床に触れた。
ぺティギュアの色は赤。
林檎の色も赤。
赤は好き。
ほんの少し少女らしい気持ちになれるから。
夜の空気は心地いい。
安堵するような気持ちになれるから。
私は、満ち足りたような長い溜め息。
私は、知らない。
夫人の帰りたい場所も。
いつか、私も、夫人と同じように、
どこかに帰りたい、と望むのかも。
窓の外に夜の色。
夜の色を、吹く風が揺らしているみたい。
私は、もっともっと、この夜の空気を感じていたい。
『私もレースとお砂糖でできたの?』
私は訊いた。
『あなたは、未完成。
お前に、リボンを入れ忘れた人があったのよ』
ミカンセイ。
満たされないなら、足りないものをどうやって補ったらいい。
『私もリボンが欲しい』
『今からでは遅いわ。
あなたは、自分にリボンを結んでくれる人を探す他ないのよ』
風が吹いた。
夫人は黙ってレースの続きを編みはじめる。
私は早く可愛い女の子がみたいと思う。
リボンを結んだ女の子。
リボンの色は、きっと赤がいい。
私の黒のワンピースは、
太もものところまでたぐりよせられている。
今夜も、ひどく熱い。
『あなたも15ね。
15なら、もう自分の欲しいものも分かるでしょうに』
夫人は、あみかけのレースを鼻の先まで近づけて、
端の部分の出来具合を確かめている。
月は、遠く滲んで、
煙草の煙を吸いすぎたのか、
胸のあたりが妙に息苦しい。
庭先にはジャカランダの木が枝を広げ、
いっぱいに花を咲かせていた。
薄い紫が、
宵の闇に溶け込み、
不思議と浮き立ってみえた。
ふと胸をすくわれるような光景。
私は煙草の煙をゆっくりと吐き出す。
花びらのひとかけが、
こちらまでひらりひらりと舞い落ちてきて、
宵の闇が静かにワンピースの裾をかすめた。
薄い闇の世界。
花びらの薄い紫が視界の端にちらちらと舞ったまま、
いつまでも離れない。
熱帯の夜はどこまでも儚いから、
胸が苦しいのに、誰も私を慰めることができない。
『私のリボンの色が思い出せないの』
太陽の光にすべてを晒されてしまいたい。
私は、宵の闇に煙草の灰を落とした。
灰は夜風にまぎれて、すぐに消えた。
風は透明な青。
そこには濁りがないから、私は泣きだしていまいたい。
『何処かで失くしてしまったの』
夫人は黙ってレースを編みこんでいた。
生ぬるい風が、吹き抜けて、私の胸を騒がせた。
『失くした場所が分かったなら、
それを取り戻して、また、ここに戻ってこれると思うの?』
夫人の声は、年老いたものの声。
そんな力、私にはない。
夫人は、レースを電球にすかして、
その出来栄えを確かめていた。
それから、レースを落ち着いて膝のところまで戻し、
ふっと肩の力を落とした。
『真夜中に夢見たものと同じ、
この浮世ですべては消えてしまうのよ』
夫人の言葉に、首をもたげるようにして頷いた。
この浮世。
うたかたの世界。
ならば、この世界に愛を。
気だるさが体にのしかかってくる。
私は、また庭先に体を向けた。
ジャカランダの花びらが、
はらはらと夜の闇に舞い落ちてゆくばかり。
穏やかな夜。
私は、その様子を息もつかずにじっと眺めているばかり。


